チャッピーばあちゃんが死んだ

西の魔女が死んだみたいにタイトルをつけるな

 

今朝、父方の祖母が亡くなった。私が祖母に最後に会ったのは祖父の葬式の時。それも随分前のことで、私は久しく祖母に会っていない。訃報を聞いても、自分の知らないどこかの誰かが亡くなったのを知った時と同じような気持ちでいる。けれど、色々思い出したので書き残しとくことにした。

チャッピーばあちゃんというのは私が小さい頃から呼んでいた祖母のニックネームだ。チャッピーは当時、祖母が飼っていた犬の名前。チャッピーを可愛がってるばあちゃんだからチャッピーばあちゃん。犬はよく祖母に懐いていた。白くてかわいい洋犬だった。

幼い私は祖父母宅の土手へよく散歩に着いて行った。その時間が好きで、車で二十分ほど離れたところにある祖父母宅へ何度も行きたい行きたいとねだり、父をあきれさせたこともあった。

 

祖母は信心深い仏教系の宗教の信者で、しかし祖父は敬虔なクリスチャンだった。

私が祖父母宅へ遊びに行く時、大体祖父母はぎゃあぎゃあと喧嘩をしている。私や従兄弟など孫に対しては祖父も祖母もそれぞれ優しかった。しかしこの夫婦、やっぱり大体常に喧嘩をしている。それが日常なので、幼心に「またやっとるわ」って感じだった。

祖母はお喋りで、ことあるごとに長い話を私や従兄弟に聞かせた。祖父は物静かで何を考えているかよく分からず、私は少し怖く思っていたこともあった。

 

私は小学生の頃、顔が不細工なためにいじめを受けた。自分の顔はあまり好きじゃない。そのことを親に言ったら泣かれたのであまり言わないが、確かに可愛いとも綺麗とも言えない顔をしていると思う。そんな私の顔を、祖母はよく「べっぴんさんやなあ」と言って褒め、髪を結ったり梳いたりしてくれた。祖父はよく「ミニママや」と笑いながら言ってくれた。母にそっくりの顔をしているからだと思う。父方の祖父だが、私の母のことも悪く思ってはいなかったのだろう。寡黙で表情のない祖父の機嫌が良さそうな顔と声は、その珍しさから私の頭によく残っている。

 

私にとっては良い祖父と祖母だった。よく喧嘩していて怖いけど、それが日常だった。

 

祖父が病気になり、入院した。独りで家に残って暮らす祖母は寂しそうだった。喧嘩相手がおらんからな、と私の父は言っていた。

祖父が亡くなった。私は人生で初めての葬式を経験した。クリスチャンだった祖父の葬式は私が想像していたより華々しかった。白い百合がたくさん飾られ、式場は花の匂いで溢れていた。棺桶の中で眠る祖父を見た時は、まだ生きているようにも見え、これから目を開けて起き上がり、あのガラガラの低い声で悪態をついたりするのではないかとも思えた。

式の途中で歌とか流れてすごいなあとか思ってたら献花の時間になったので、準備されていた花を棺桶に入れた。父も、父の兄弟も、従兄弟も、皆が花を手向けた。私はやはりすぐ起きてきそうだなあと祖父の亡骸を眺めていた。

最後に献花を行うのはやはり、その妻である祖母だった。いつも祖父とは喧嘩ばかりしていた。ぎゃあぎゃあ言い合うので怖かった。その最大の献花相手がいなくなった祖母は何を思うのだろうと、私は離れたところから祖母を見つめた。

祖母は気が強く、とにかく頑固な女性だった。いつも大きく目を開け、はきはきとしっかり喋る。なぎなたが強いとも自慢していた。祖母の兄は居合の師範だともよく聞かされた。凛として気が強く、プライドの高く、肝の据わった女性だった。

その祖母が花を手向ける時、くずおれて泣いていた。棺桶の縁に縋るように掴まり、泣いていた。叔母もその姿を見て泣いていた。いつも飄々としている私の父でさえ泣いていた。私はそれを見た時も、今ブログを書きながらも泣いている。

喧嘩ばかりだった二人の間に確かな夫婦の結びつきを見た。やはり、祖母は祖父の妻なのだと思った。

焼き場に行った時のことはあまり覚えていない。私が骨になった祖父を見て、また焦げた匂いに気持ち悪さを覚えて骨を拾うこともできず逃亡したためである。年下の従兄弟に冷ややかな目で見られたがンなこたどうでもいい。ミニママや、と言ってくれた祖父が『命』から『物体』になったことが耐えられなかった。今も耐えられていない。

それから数年が経った。

 

私は今年、新社会人として世の中に放流された。

多分、祖父も祖母もお客様として利用してくれてたんじゃないか。そんなところに就職した。ここに就職したよ、と言ったら絶対にわかってもらえるくらいの有名なところに就いた。けれど、それを言うことはなかった。数年前の祖父の死からそう経たず、祖母は介護施設に入ったからだ。痴呆も見られ始めたのだという。私の通う大学は遠方のため、実家に帰ることも年に数回となり、やはり施設に入った祖母には会っていない。

そのまま祖母は亡くなった。就職したよ、と伝えることは叶わなかった。心が弱い私をいつも心配してくれていた祖母に、私は何も言えなかった。幼い私の下手な絵をいつも見てくれた祖母に、音楽が好きな私にピアノを貸してくれた祖母に、九州訛りの口調で私を呼んでくれた祖母に、べっぴんさんだと褒めてくれた祖母に。私は何の礼もできていない。

 

信じたら救われる、と祖母は言っていた。それは祖父の葬式の日の朝のこと。

信心深い祖母は、昔どうにも治りそうにない病気か怪我をしたとき、祈って奇跡を起こして治したのだと言っていた。またばあちゃん何か言うとるわ。そう思いながら、困ったら信じればええんやと言っていた祖母のことを忘れられないでいる。

 

祖父の父、つまり私の曽祖父…ひいじいちゃんは偉大な人だった。

その地方ではちょっとした有名人で、ネットで検索したら見つかるくらいの人である。家系はずっと武家。近代でも所謂財閥というアレで、祖父はその家の長男。財閥、でかい企業の社長の長男。超ボンボン。それなりに昔はハンサムだったらしく、いつも周りに女がいたと祖母は私に思い出を話してくれた。

一方、祖母はそんな祖父とは違い、普通の家の出。カフェで働いてたか何かのときに祖父に一目ぼれされて、熱烈にアプローチをされたのだと言っていた。いつもアホみたいに周りに女がいて、それなのに私なんかに一筋。本当にアホ。他に女幾らでも選び放題なのに私。そう呆れながら、罵りながらも言っていたが、あれは多分祖母の自慢だ。

その後、なんやかんやあってそのボンボンと強気女は駆け落ちしてその地方を離れ、離れた先でかなりの貧乏暮らしを経験し、なんやかんやで今に至ったらしい。

財閥、経営者の長男、超ボンボンの祖父が実家に見切りをつけ、祖母を連れて遠く離れた地へ。その会社が当時所有していた財を聞けば、よく駆け落ちなんかしたなって思った。ごめん。

祖母にメロメロだった祖父がいつから祖母とケンカップルになったのかは知らない。ドラマみたいな人生だったんだと思う。

 

チャッピーばあちゃんが亡くなった。

犬のチャッピーもとうの昔にいなくなった。

チャッピーじいちゃんももういない。

 

今朝亡くなったばあちゃん。

父の夢に出てきたらしい。

施設に入っている祖母が父に、もう帰りたいねんと言ってベッドほどの大きい台車の上に乗り、父に家まで押すように頼んだという。しゃあないな、と父は台車を押そうとするが、これがまたロックでもかかってんのかというくらい重い。それでも何とか家まで押して、祖母を運んだ父。辿り着いた祖父母宅。そこには数年前亡くなった祖父がいつもの定位置にいて、祖母を迎えたという。夢はそこまでで、起きたら訃報が入ってきたらしい。

 

祖父母宅は先月取り壊された。古くてぼろぼろで、しかも部屋を増設してツギハギになっているところさえある。若い頃に大工見習だった私の父が増設したのだとよく聞かされた。取り壊しの数日前に私は独りでその家を見に行った。鍵がかかっていたから外だけ眺めて、よくここでじいちゃんがアロエの面倒見てたなとか、味噌汁の貝のガラを庭にばあちゃんがまいてたなとか色々思い出した。

帰ろうとしたら別の車でちょうど兄と父が来た。皆、考えることは同じだった。

 

その家ももうない。犬もいない。祖父もいない。祖母は今朝旅立った。

数年間、じいちゃんは喧嘩相手をあの家で待っていたのかもしれない。

 

向こうでも仲良く喧嘩してほしいと思う。